読売新聞

今年は鎌倉仏教の祖師である法然800年忌、親鸞の750年忌にあたり、関係教団による法要や行事が相次ぐ。現代に問い直す意味は何か。寄稿してもらった。/いつの世も同じだが、正義よりも不正義が、道理よりも無理が幅を利かすことが多い。そのため、世の中を少しでも良くしようとさまざまな運動が生まれる。だが、活動家たちを悩ますのは、大方の賛同を得ることができないことからくる燃え尽きや絶望だ。一方、正義や道理が軽んじられていても、それには目をつぶり、仕方がないとあきらめる無関心派も少なくない。/しかし、よく考えてみると、絶望も無関心も、ともに自己の考え方を優先させている点では変わりはないように思われる。絶望は、自己主張が挫折したところに生まれるし、無関心は自己保身を優先させるところに生まれている。/つまり、人はどのような価値観をもっているにしても、大多数は自己の考え方にこだわり、自分はいつも正しく、間違っているのは彼らだと考えがちなのだ。しかも、こうした傾向は人間の本質に根差していて、それを改めるのはほとんど不可能だ。では、いつまでも絶望や無関心の壁は超えられないのであろうか。/唐突に思われるかもしれないが、実は、そうした壁は超えられると教えるのが法然の仏教なのである。法然によれば、人はみな「凡夫」である。凡夫とは、自己保身を第一とし、自己愛から欲望を総動員する存在であり、その本質は関西弁でいえばアホであることに尽きる。このようなアホな存在が、アホのままで教われる、と説くのが法然の仏教である。/法然の教えは、ただ「南無阿弥陀仏」と称(とな)えればよいだけた。なぜ念仏をすると救われるのか。それは、阿弥陀仏がわが名を称するものはいかなる人間であっても、等しく浄土に迎えて仏とする、と約束しているからだ。この約束を信じさえすればよい。/この物語を信じて念仏するようになると、アホさ加減は変わらないが、それでも徐々に変化が生じて、自分と他人との個性の違い、自分と他人との共通性が以前よりは見えはじめる。念仏によって、このような変化が生まれることを強調したのが弟子の親鸞である。/親鸞は、法然が念仏を最優先せよ、と教えたのは、念仏によって、普通の人間にも仏心が植えつけられるからなのだ、と了解した。それが「信心」(親鸞は「まことのこころ」と振り仮名をつける)にほかならない。/親鸞のいう「信心」は、私たちがふつうに使う、神仏を信じるという意味ではない。あくまでも、念仏をすることによって生じる仏心のことなのである。ふつうにいう「信心」は、親鸞においては「聞く」という言葉に置き換えられている。人は阿弥陀仏の物語を徹底的に聞いて心底納得して念仏する、そうすると仏心=信心が生まれてくるという筋道を示しだのが親鸞なのである。/もとより凡夫の仏道だから、華々しく悟るというわけにはゆかないが、無意識の領域に蓄積される仏心が人を智慧と慈悲の世界へと導いてくれているのだ。その完成は死後のことになるが、仏道を歩んでいることには変わりはない。つまり、阿弥陀仏の「平等の慈悲」を暮らしの基準とする生き方が生まれてくるといってよい。/そうなると、互いにアホで愚かな存在だと確認しあうなかで、問題を解決する智慧を出しあうことも容易となり、絶望や無関心も克服されてゆくのではなかろうか。

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「科学の知」とは何かを考える上で「自由」という言葉から始めたい。ヘーゲルは著作「法の哲学」の中で「自由とは必然性の洞察である」という趣旨のことを語っている。/目の前に二つのレバーがあり、片方を引くと100万円が出てくる。もう片方を引くと青酸ガスが出てきて、あなたは死ぬ。さあ、どうぞ自由に引いて下さいと言われて、そこに自由はあるか。それは、ただ偶然性に身を任せる行為だ。/ヘーゲルはこれに対して、必然性の洞察、つまり、こちらを引けばこうなるとわかった上で選択することが自由だと言っている。/科学とは、自然の成り立ちを解き明かす学問だ。まさに必然性を洞察することで、より多くの自由の枠祖みを人類に与えてくれる。/「昆虫記」を記したファーブルが活躍した時代、フランスの養蚕業が、未知の病原体によって壊滅しそうになったことがある。この危機を救ったのは、昆虫をよく知るファーブルではなく、細菌学が専門のパスツールたった。病気がどういうものか、どう伝染していくか、一番基礎のことを理解していたからだ。科学は基礎的であるほど応用範囲が広い。/しかし、その基礎科学が社会で役に立つには時間がかかる。光が電磁波であることを唱えたマクスウェルの電磁気学の基本方程式(1864年発表)が応用され、レーダーとして社会に顔を出したのは第2次世界大戦の時。非常に精密な設計と計算が必要だったためで、100年近くかかったことになる。/物質を構成する素粒子を調べる加速器や宇宙開発などの分野では、研究が高度になると必然的に装置が大型化していく側面がある。その結果、科学が人々の世界や感覚からどんどん遠ざかっている。今、私たちに求められているのは、こうした事態にどう対応していくかということだ。/そこで、「丁五流」の学び方、生き方を勧めたい。一つの学問は高校、大学を通じて、しっかり身につける。そして、同時にもう一つ別の性質の学問を、半分ぐらいのエネルギーで楽しむ。この学び方は、私の造語「井の中の蛙の定義」があてはまる。カエルを井戸の外に出してやると、最初は、今までと違う世界の存在を認識する。そして二つの違った世界があると思った途端、この先にどんな世界があるのかという第3の可能性に気付く。/わが家には1万冊弱の本があり、かなりの部分は雑学的な新書。学生には、理解できない本があったら、しばらく寝かしておけと言っている。ほかのいろいろな本を読んで、半年ぐらいすると、自然と読めるようになっている。雑学的な知識が、視野と想像力を広げるからだ。こうした一・五流の雑学が本業を究めていく上で生きてくる。

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ノーベル賞を受賞しますと、講演や討論などの場で、国内外の若者と交流する機会が多くなります。若い人が科学や技術を志すよう、自分の研究にまつわる失敗と成功の話、新しいものを見いだしたときの歓喜と興奮、科学研究の醍醐味を伝えます。受賞の栄誉は、こういった仕事と引き換えに与えられていると言えるかもしれません。/毎年夏、ドイツの避暑地リンダウでは、十数人のノーベル賞受賞者と学生が交流する会議が聞かれます。大学生など数百人が集まりますが、最近は欧州だけでなく、米国、日本からも多数参加するようになりました。私もこれまで8回出席しました。《リンダウ会議は第2次世界大戦で疲弊したドイツの学術復興のため、スウェーデンの伯爵の支援で1951年から始まった。物理学、化学、生理学・医学の3分野が順番に開催される》私は自己流で、創造力の重要性を若者に訴えています。知的能力には、新しいアイデアを生み出す創造力と、ものごとを理解し、判断する分別力があります。20歳から70歳まで活動すると考えると、分別力は20歳ではゼロですが、70歳には100になる。創造力は逆で20歳がピーク。45歳ごろ、このふたつが拮抗します。/創造力こそが若者の強みでしょう。ノーベル賞の対象になった業績の多くは、受賞者が45歳よりも若いときの仕事です。/ノーベル賞をとるために、してはいけない5か条をお教えしましょう。/第一に、今までの行きがかりにとらわれてはいけません。しがらみを解かない限り、思い切った創造性の発揮などは望めません。第二に、教えはいくら受けても結構ですが、大先生にのめりこんではいけません。のめり込むと、権威の呪縛から逃れられなくなる。自由奔放な若さを失い、自分の創迫力も萎縮します。第三に、無用なガラクタ情報に惑わされてはいけません。われわれの能力には限りがありますから、吟味された必須の情報だけ処理します。第四に、創造力を発揮して自分の主張を貫くためには、戦うことを避けてはいけません。第五に、子どものようなあくなき好奇心と、初々しい感性を失ってはいけません。/この5か条は、私が94年のリンダウ会議で話したのをノーベル物理学賞の選考委員が聞いて、翌年のスウェーデンの物理学専門誌に「江崎の黄金律」として紹介してくれたものですから、お墨付きといえるかもしれません。もちろんノーベル賞をとるための必要条件で、十分条件ではありませんが。/日本では88年に読売新聞社がノーベル賞受賞者を囲むフォーラムを発足させ、毎年、国内各地で講演や討論を行っています。海外の受賞者も招かれ、私も初回から欠かさず参加しています。このような活動を通し、日本に創造の風土を醸成していきたいと考えています。

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40代男性。どうしたら仕事に対してやる気が出るのでしょうか。計画を立て早めに進めることができません。締め切りが近づくと他のことが気になり始め、爪を切ったり机の上を片づけたり。庭の手入れまで始めてしまいます。子どもの頃にも、夏休みの宿題は8月31日に泣く泣くやっていました。/以前は叱咤(しった)激励してくれた妻も最近は「どうせ本格的に追いつめられなければやらないんでしょ。まだ2日もあるから散髪にでも行ってきたら」と涼しい顔。私は本当は焦っていてつらいのです。/小学生の息子は宿題を前倒しで済ませます。私の父としての役割は反面教師。なんだか情けない。/結局はやらなければならないのに、追いつめられないとできない。意志が弱いと言ってしまえばそれまでですが、この性分は一生変えられないでしょうか。/ちなみに今の仕事は天職だと思っています。やりがいがあり転職は考えておりません。(茨城・M男)/◇/やる気が出ない、とのご相談ですが、結果的にあなたは仕事を立派にこなしているように思えます。やりがいをお持ちだし、奥様は涼しい顔。息子さんもわが道をしっかり歩もうとしている。やる気のあるなしは気にしなくてよいのではないでしょうか。/事前に計画を立てればよいというものではありません。不測の事態が起これば、計画は無駄になる。緻密(ちみつ)なものを立てたりするとそれを捨てられず、ヘンにこだわって間違いをおかす可能性も出てくる。つまり、締め切り目前に取りかかるというのはある意味、賢明だと思うのです。そもそも計画というものはかりそめの安心を得るためのもの。それに依存しないあなたは「意志が弱い」というよりむしろ意志が強いのではないでしょうか。相撲にたとえるなら土俵際の勝負。俵に足がかかってから力を発揮する。いうなれば短期決戦で挑んでいるわけで、下手な計画を立てるよりよほど効率的なのです。/やる気が出なくても大丈夫です。大切なのはやる気よりやることで、やる気に労力を費やすよりやったほうが早いと私は思います。http://www.yomiuri.co.jp/jinsei/shinshin/20100908-OYT8T00212.htm

――人はそれをヘリクツと言う。「大切なのはやる気よりやることで、やる気に労力を費やすよりやったほうが早い」というのは尤もな話だけども。

読売新聞

30代の会社員女性。同僚から告白され、結婚を前提に付き合ってほしいとも言われました。過去の女性歴が気になりましたが、私もそんな気持ちになっていけたらいいな、と思っていました。社内には隠していましたが、普通のお付き合いをしていたつもりでした。/ところが彼の様子がおかしくなりました。約束をキャンセルされることが続きました。しばらくして、会社の後輩が妊娠し、彼と婚姻届を出したと知りました。彼は「自分の子どもを産んでくれる人が大切だ」と。二またをかけていたのでしょう。裏切られました。/彼は社内では素知らぬ顔。彼女のおなかが大きくなっていくのを見せつけられ、私は耐えられなくなり会社を辞めました。友達は「そんな男と結婚しなくてよかった」と言ってくれます。自分でも少しはそう思います。でも万が一、彼と彼女が幸せになったらどうしよう。もう人の言葉を信じられません。なにが自分の幸せなのかわかりません。(東京・U子)/◇/彼の裏切りに苦しむ気持ちはよくわかります。どんな言葉でも今のあなたを慰めることはできないでしょう。ただ、「(彼とは)普通のお付き合いをしていた」といった文面からは、あなたがとっかえのきかない相手と本気で恋愛していたのかなあ、と私は思ったりもします。/恋愛は魔物です。規範も超えます。どんなルールをも踏みにじる情熱なのです。もしかしたら妊娠した後輩は、あなたより彼に本気だったのかも。多くの場合、本気が勝つのです。そして「関係は常にフィフティフィフティ」という視点から考えてみることもできます。自分が愛されたいと欲するように相手を愛していたかと。/自問自答しているうちに、相手の不実を責めても意味がない、これは本気で恋愛をした人と結ばれる準備だったのね、といった結論に至り、それが怒りの感情から脱するきっかけになったりもします。/自分を苦しめている問題を忘れるのではなく、納得いくまで突き詰めて答えを出し切る、というのも苦しさから解放されるひとつの方法かと思います。http://www.yomiuri.co.jp/jinsei/danjo/20100909-OYT8T00252.htm

――「ただ、「(彼とは)普通のお付き合いをしていた」といった文面からは、あなたがとっかえのきかない相手と本気で恋愛していたのかなあ、と私は思ったりもし ます。/恋愛は魔物です。規範も超えます。どんなルールをも踏みにじる情熱なのです。もしかしたら妊娠した後輩は、あなたより彼に本気だったのかも。多くの場合、本気が勝つのです」

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タンザニアの若いアーティストの作品を集めた展覧会「ティンガティンガ展」が9月2日から、横浜市中区の「ギャルリーパリ」で開かれる。エナメルペンキで描かれた作品からは、アフリカの大地を力強く生きる動物や人々の日常を見ることができる。/このアート展を企画した。活動拠点はインド洋に浮かぶタンザニアの島「ザンジバル」。5年前に始めた画商のほか、複数の会社を経営し、政府公認の柔道コーチを任せられている。そのすべての活動はアフリカを貧困から脱出させる“アフリカ独立革命”につなげるためのものだ。「アフリカの人々の意識改革を進め、貧困を抜け出そうという志を持ってもらいたい」と力強いまなざしで話す。/横浜生まれの自称「革命家」。幼少のころから父親に、「弱いものを助ける革命家になれ」と教えられた。父親からは「日本で仕事をするな」「定職に就くな」「結婚するな」「免許・資格を取るな」と、世間とは違う教育を受けた。/「自分だけが特別だと思っていなかった。みんなが革命家になると思っていた」と笑う。父の教えを守り、将来は貧困に苦しむ人を救おうという志を持ちながら、6歳で始めた柔道に励み、高校卒業まで心身ともに鍛え上げた。/大学は中退し、19歳のときに将来の活動拠点を見つけるため、フリーライターとしてアジアやアフリカを渡り歩いた。5年で54カ国。この旅で人種差別で苦しむアフリカの人々を目にし、「アフリカの人たちのために革命を起こす」と決意した。アフリカの大地で第1次産業を発展させて雇用を増やし、経済を活性化させようと考えた。/帰国後、「結婚はするな」という父の教えに背き、大学1年の時に知り合った由美子さんと結婚した。「1人の人間として、革命家として理解してくれた。妻であり同志です」という。反対もあったが、結婚して1カ月後、2人でザンジバルに渡った。/ザンジバルは漁業が盛ん。そこで人々の雇用を増やすため、3カ月半かけて小型船を造り、水産会社を設立した。漁師の経験はなかったが、乗組員を雇って海に出た。/日雇いが当たり前の乗組員を固定化し、仕事に責任を持たせた。乗組員以外も仕事に就けるように、船から陸に魚を運ぶ担当など仕事を振り分けた。ザンジバルでは斬新な経営方針に、現地の人々からの信頼を得て、大型船も含め何隻もの船を持つ会社に成長した。/仕事を求める人のため、水産会社のほかに運送会社や貿易会社も設立した。今では300~400人を率いる経営者に。「どれも経験はなかったが革命家は何でもできなくてはだめ」ときっぱり。/柔道でも平成4年には政府公認のコーチとして認められ、現在はタンザニア柔道連盟の会長を務める。/いま最も力を入れているのは、若いアーティストの作品を世に広めること。画商を始めるきっかけは、作品を値切る日本人の画商に悩むアーティストから「画商をやってくれないか」と依頼されたことだった。絵の知識もなく始めたが、展覧会を開くなど着々と活動の輪を広げている。/「いつの日かアフリカ独立革命が実現できるように、アフリカ人の意識改革を進めていきたい」。今後の抱負に続けて「人は志があるから生きていけるんです」と熱く語った。/《しまおか・つよし》 昭和38年8月生まれ。横浜市南区出身。講道館柔道3段。尊敬するのはベトナム解放の父、ホー・チミン。「ハングリー精神を失いたくない」ということから1日の食事は1度だけ。ザンジバルでのニックネームは「カクメイジ」。http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/kanagawa/100829/kng1008292131003-n1.htm

――「横浜生まれの自称「革命家」。幼少のころから父親に、「弱いものを助ける革命家になれ」と教えられた。父親からは「日本で仕事をするな」「定職に就くな」 「結婚するな」「免許・資格を取るな」と、世間とは違う教育を受けた。/「自分だけが特別だと思っていなかった。みんなが革命家になると思っていた」と笑う」

産経新聞

「行方不明老人」というのが相当数に上るらしい、と聞いて、想像力をかきたてられている。/そう、人生はさまざま。/1人の老人が行方知れずになるには、いろんなドラマがあるに違いない。/多くは1人暮らしで、身寄りのない人か、わけあって家族と断絶してしまった人だろう。/中には、家族の年金詐取といった興ざめな事例や既に犯罪の犠牲者になっているミステリー小説のようなケースもあるだろう。/それでも、生きていれば150歳を超えている、などとの報道を聞くと、どっかでまだ生きているのかもしれない、と思ってしまう。/世界には戸籍なんてもののない国のほうがずっと多いのだから、抹消ミスなどたいしたことではないように思う。その人が生まれて行方不明になった記録としてずっと残しておけばいいのに、と考える私はヘンなのだろうか。/そもそも、死亡すると戸籍簿にバッテンをつけて抹消するあのやり方はよくない。/父や母の名前の上にバッテンをつけられたとき、なにか不当なことをされた気分で、文句を言いたくなった私はやっぱりヘンかしら。/思えば、わが老父も行方不明老人になりかけたことがあった。/一度は遠くに住む兄夫婦の家に遊びに行き、1人でふらりと散歩に出掛けたら、ふいに「私はだれ?」「ここはどこ?」の状態に陥り、ずっとさまよっていた、ということがあった。/「どうしてか、どこかに行かねばならない衝動に駆り立てられて、そこの角を曲がり、さらに曲がり…」、なんてことを父は自分で言って、「不思議なもんだなあ」と、首をかしげていた。/それを、認知症とか徘徊(はいかい)の始まりと言ってしまえば、それで終わりだけれど、老いて自己コントロールを失うと、果てしなくどこかへ行こうとしてしまうということに、何か人間の本源的な欲求のようなものを感じてしまう。/この私も、どこかへ行きたい、ここではないどこかへ、という漠然とした思いに、年中かられている。/目下は、「そういうわけにはいかないでしょっ」と自分で自分に言い聞かせているけれど、後10年、いや20年もしたらどうなるか分からない。/できれば、老いてふっとこの世から消えて、行方知れずになるのがいいなあ、とあこがれるけれど、老人の孤独死や行方不明死が不幸だという固定観念がかくも強固にある限り、その実現はなかなかにむずかしそうだなあ、と思う。http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/100902/sty1009020806003-n1.htm

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同人誌「新思潮」の会合に初めて私を連れて行ってくれたのは三浦朱門でしだ。初めて会った時の話をすると、いつも笑われます。/顔も知らない人と会うので、どこで待ち合わせるのかと尋ねると、手紙で、新宿駅のホームにゴミ箱があるから、そこに立っていろと。私たちはそこで会って仲間の下宿に行きました。《三浦朱門氏は東大を卒業して日大芸術学部の講師をしていた。その後、1952年に発表した小説「斧と馬丁」が芥川賞候補となリ、「第三の新人」の一人として注目される》ゴミ箱の横で朱門と知り合って、ちょっと偽悪家的な感じがしました。「僕はウソつきです」と言ったんですよ。ひねくれているから面白かった。私は偽善者が嫌いでした。《初対面の時を三浦氏はこう語る。「手紙と作品をもらい、20歳の女の子にしては書けると患った。仲間に相談したら女性が入ってもいいと言う。でも文学少女なんていうのはブスに違いない。目立たなくていいよう、大きなゴミ箱に並んでいるようにと書いたんです。でも僕が着いてから彼女がやってきた。ゴミ箱と並んで得をしたのは僕の方だったかもしれない」》朱門は今も同じです。先日、湯島天神に合格祈願の絵馬が奉納されているとテレビで流れたら「僕なら『こいつらみんな落ちますように』って書いてくる」と言う。「そうすると僕が入るから」って。発想の仕方が昔と同じ不良中学生のままです。本当におかしくて気楽な人です。/当時、不良青年のことを「イカレポンチ」と言ってましたが、本当にイカレポンチの軟派青年でした。言葉が全部常識はずれ。ただ、ダンスがうまいとか、クラシックの音楽会に連れていってくれるとか、そういう素敵な青年ではない。/聖心女子大の同級生たちは慶応大学の男の子が好きだったんですよ。ピアノが弾け、車が運転できるしダンスに誘ってくれる。私もそういう素敵な青年をいっぱい見たけれど、つきあっていると疲れちゃう。私が野暮だったんでしょうね。/当時、伯母が一生懸命になってくれてお金持ちの方とお見合いもしました。でも、大きなお宅に行ってみると階段が三つ、トイレは四つある。そんな家を一人で掃除するのか、これはダメだと思った。私はお金持ちの生活に向いていない。/朱門は性来寛大なんです。いいかげんだから相手もどうたっていい。朗らかで文句を言わない。私は父の機嫌を悪くしないよう努力して暮らしてきたから、とにかく寛大な人ならいいと思っていたんですね。/彼が助教授になって月給がもらえるようになったので、1953年10月、大学4年の時に結婚しました。22歳でした。/「新思潮」の仲間は「あいつとだけは結婚するな」と言っていたけれど、私は素敵な人より、本当のことを言う人がいい、と思っていた。お陰様で、今でも毎日、笑っていられます。

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30代女性。大好きで尊敬していた歌手が5年ほど前、亡くなられました。私は大ファンで、その方を心の支えに生きてきたといっても過言ではないほどでした。/その方が亡くなられてから、どうして死んでしまったのか、私が代わってあげたかったと、毎日涙しています。会いたくて仕方がありません。/生きていく支えがなくなり、なぜ、私なんかが生きているのかと考えてしまうことも。2年前には母も亡くなりました。大切な人が、みんないなくなってしまいます。/たかが芸能人くらいで、と思う方もいるかもしれませんが、私にとっては本当に大切な宝物を失った気持ち。心の整理がつきません。家にいると余計なことばかり考えてしまうので、アルバイトや趣味をして極力考えないようにしているのですが、つらいです。気持ちをどう切り替えたらよいのでしょう。教えてください。(東京・O子)/◇/あなたのお手紙は、これ以上ないくらいの最高のファンレターです。もしこの歌手の方が読めば、「自分の芸能生活はこれで完成された」と感涙にむせぶかもしれません。/ただその一方で、おそらく「いつまでも自分の死を引きずってほしくはないなー」と思うのではないでしょうか。お母様のご逝去とも重なり、あなたの寂しさが生活に影を落とし続けるとしたら、やはり何とか気持ちを切り替えねばいけないでしょうね。/一つの方法として、次のように考えてはどうでしょうか? 生きている間、その方は肉体に縛られて自由に動けず、現実の社会であなたのことも知りようもなかった。つまり、一方的な関係でしかなかった。でも死んでしまったことで、肉体から自由になって、あなたのそばにだって寄り添える存在になった。だから、この手紙も読んでくれて、むせび泣いてくれるかもしれないって。/この答えは人生案内の回答としてはちょっと宗教的過ぎるかもしれません。しかし私は、死別することによってかえって心の距離が近づく関係だってあるような気がして仕方ないのです。http://www.yomiuri.co.jp/jinsei/shinshin/20100829-OYT8T00209.htm

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結婚3年目の30代の女性です。夫とは仕事を通じて知り合いました。交際を始めた頃、私は仕事を辞めました。挫折です。/現在は派遣社員として働き、家事とも両立させています。/一方、夫は私が挫折した仕事を続け、どんどん出世しています。妻としては応援すべきなのでしょうが、素直に喜ぶことができません。家の雑事を私に任せて、外でのびのびと仕事をしていることに腹を立ててしまうのです。毎日つまらないことでけんかをしてしまいます。/夫がまぶしい。しかし、ねたましくもあるのです。私は以前の職に再び就くことはないでしょうが、もう一度、仕事に没頭してみたい。離婚して解放されたい、とすら思ってしまいます。(東京・E子)/もし反対に、夫の仕事が失敗続きで、出世の見込みがなかったら、あなたはどう思いますか。やはり、こんな情けない夫とは離婚したいと考えるのでは。/配偶者をライバル視すれば、心が落ち着く暇はありません。いつも一緒にいて比較してしまいますから。/離婚したところで、一時的に気が晴れるだけで、客観的状況は何も変わりません。少し心の持ち方を変えてみましょう。夫は夫、あなたはあなたです。あなたは、家庭外にも仕事をもっているのですから、職場にも家庭にも居場所があるのです。自分が必要とされている場が二つもあるなんて素晴らしいじゃないですか。/夫はあなたのために仕事を頑張っている面もあるでしょう。あなたを頼りにしているのだと思います。ただ、あなたも家庭外で仕事をしているのですから、夫に家事を分担してもらい、あなたの時間を作ることも必要ですね。その時間を、仕事でも趣味でも、あなた自身の人生を充実させるために使ってください。離婚を考えるのは、それからでも遅くありません。http://www.yomiuri.co.jp/jinsei/kazoku/20100828-OYT8T00164.htm

――自分にない才能を含め夫という人間そのものを性的に支配してしまえばいい。

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「がんばらない」という一見、後ろ向きで、けれども、「がんばる」一辺倒の不自由さからぼくらを解き放つ言葉が、この時代に力を持ちました。/力のない言葉が世の中にあふれているけど、言葉が「力」であることは今も昔も変わらない。権力なんていらないが、ぼくはこれからも、この言葉と共に生きていきます。/言葉はぼくであり、ぼくの意志であり、同時にぼくを縛るものだから。《2005年、鎌田さんは、バリアフリー支援のボランティアを開始。あったかな医療からあったかな社会の「仕組み」へと活動の幅を広げた。福祉施設への応援も多い。人々との交流から、『なげださない』『ウエットな資本主義』などの著作も生まれた》「がんばらない」って何か、改めて考えています。/みんながほんの少しずつ自分の心の中に持っているのに、忙しい暮らしの中では気づくのが難しい。でも、気づかなければ社会をさらに追い込んでしまう、そんな言葉だと思う。/これまでの医療や介護、生き方の中では見過ごされがちな視点でした。/もう少し自分に引きつけて見てみるなら、こんな解釈になるでしょうか。/自分と、自分をとりまく「がんばればいい」という価値観を絶対視せず、だけど、みんなの中にいる自分を信じて、1%だけでも誰かのために生きてみること――。/今月末には、「ピースボート」の船で、パレスチナなどを訪ねます。2人の父親に会いに行く。/2005年、ヨルダン川西岸の街の難民キャンプで、パレスチナ人の12歳の少年がイスラエル兵に撃たれました。少年の父親は、脳死になった我が子の臓器を、イスラエルの子どもや大人6人に提供した。/この父親と、子どもに臓器提供を受けた側の父親に会い、どうしても話をしてみたい。「がんばらない」は、きっと、一人ひとりの中に、そして世界中にある。 カマタだからできること。それは、時代の半歩先を読みながら、「がんばらない」「いいかげんがいい」「空気は読まない」とあえて言い切って、人間のまだらな部分に目を向けてもらい、破綻を回避させる仕事だと思っています。/漢方でいう「未病を治す」という発想に近い。即効性はなくても、深いところに入り込んだメッセージの方が、「本流」を変えられるはずです。/この国はまだ土俵を割っていない。ぼくは、この日本に失望していない。/今を生きるみんな、前を向いて、がんばらずにがんばっていこうよ。/ぼくもまだ、旅の途中。

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母のふみは、「がんばりたい」と願いつつ、病気のためにそれがかなわなかった人ですね。/僧帽弁狭窄症。終戦直後までは珍しくなかったリウマチ熱の後遺症で、心臓の弁の一つ、僧帽弁が癒着してしまう。坂をのばったり、ふとんの上げ下ろしをするだけでも呼吸がつらい。夜もよく眠れない。/ぼくが小学1年生の頃は、東京女子医大付属日本心臓血圧研究所(心研)での入院生活も1年の半分に及んでいました。/日曜日、父の岩次郎と一緒に杉並区の長屋から新宿にある心研の8人部屋に通う。大きい病院だなあって思った記憶がある。大きさは信頼感の証しでした。こういう病院が母を救ってくれるのかって。/ぼくは、母が大好きだった。母の前では心おきなく自分を出せた。病院の母のベッドにもぐり込んで学校の話をする。「すごいね、すごいね」って言ってくれて。ぼくに何もしてやれないことが寂しそうで、ずっと「母さんを守るんだ」って思っていました。母の膝の上に頭を乗せ、耳掃除をしてもらう。耳には母とつながる大きな役割があったんです。無条件にぼくを受け入れ、ぎゅっと抱きしめてくれる。貧乏と岩次郎の拒絶の中でぼくがぐれなかったのは、この母のおかけです。/母が心臓の手術を受けたのは、ぼくが6年生だった1960年。心研を設立した榊原則教授の執刀で、術式は交連切開術でした。/《心臓の左心房から指を入れて、癒着した弁を破って狭窄を解除する。日本の1例目も52年、榊原教授が執刀。現在は、先端に風船をつけた管を静脈から患部に通し、風船を広げて治療するなど、外科手術によらない方法もある》母を手術室に送り出す時、岩次郎から「帰ってこないかもしれないから、よく見ておけよ」と言われたことを覚えています。/幸い手術は成功し、母は見違えるように元気になりました。「榊原先生は立派な方だ。うちにはお金がないけど、不平等にしなかった」と、岩次郎が言っていましたね。/ぼくが東京医科歯科大学3年生の時、岩次郎の個人タクシーに偶然、榊原教授が乗ったそうです。すぐに気づいて「榊原先生ですか」と声をかけると、「鎌田」という患者の名前は覚えておられた。/「小さな子がいましたよね」「医師の卵になっています」「困った時は、いつでも相談に来るように言いなさい」。そんな会話をしたという。/母を救ってくれた医療は「希望」そのものでした。「医療は人を救ってなんぼ」という感覚がぼくに強いのは、この体験があるからだと思う。その反面、医療って助からない時もある危ういものなんだと、子ども心に感じていた。/でも、この頃は、医師になろうなんて考えてもいなかった。自分が生きることに精いっぱいで。

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ぼくは拾われた子どもです。終戦5年目の1950年、生みの親が捨てた1歳のぼくを、亡き父、岩次郎がもらってくれた。37歳、諏訪中央病院の副院長だった時に、偶然、その事実を知りました。/好きになるのに40年もかかったけれど、岩次郎という男の存在がぼくの核をなしています。/岩次郎は青森県花巻村(現・黒石市)で貧農の末っ子として生まれ、小学校しか出ていない。18歳で上京し、公営バスなどの運転手で生計を立てます。バスの車掌だった母のふみと結婚しますが、居を構えた東京都杉並区の家は6畳二間と3畳、お勝手。はじめはお風呂もなかった。/ぼくが小学校にあがる前、母が僧帽弁狭窄症という心臓病を患います。入退院を繰り返した先は、日本で唯一の心臓病専門病院だった、東京女子医大付属日本心臓血圧研究所(心研)でした。《心研は55年に開設。51年に日本初の心臓手術を行った榊原仔(しげる)教授が所長を務めた。日本の心臓外科は黎明期だが、最先端の治療を求めて全国から患者が殺到し、榊原教授が大半を執刀した》50年代、往診こそ頼めても、貧しい人が高度な医療を受けるのは大変でした。国民皆保険になるのはぼくが中学生になる61年だし、もちろん高額療養費制度もない。/岩次郎は、朝8時から夜まで、長い日は1日15時間も働きます。切りつめても切りつめてもお金は母の治療費に消える。疲れきって帰り、夕食をつくれない夜は、ぼくを連れて近くの定食屋へ。ぼくはいつも、おかずに一番安い野菜炒めを選びました。/名前の通りに頑固で、無口だけど声が大きく、津軽弁で理路整然と話す人でした。背筋が伸びて、シャンとしていた。上京した同郷の苦学生を狭い家に置いてあげたりもした。/でも、ぼくが運動会の徒競走や試験で一番になっても、岩次郎は決して褒めてくれない。全力を出し切っていないって見られた。叱られて、叱られて、ぼくは育ちました。「ぼくのほう見てよ。理解してよ」と心でつぶやさながら。/だからこそ、旅券申請のために取り寄せた戸籍で、父親の欄に別の名前を見た時、衝撃だったんです。/血のつながっていない岩次郎が、ぼくを育ててくれていた。心臓病の母を抱えたあの貧しい暮らしの中で、「拾ってやった」とか、恩着せがましい言葉を一度も口にせず。泣き言を言わず、弱音も吐かず。/岩次郎は苦難から逃げなかった。苦しい時ほど、その苦しみを横に置いて、誰かのために生きようとした。がんばってがんばって、全力投球で、最後は個人タクシーの運転手を70歳くらいまで務めました。/すごい人に拾われたって思います。12年前に亡くなった岩次郎は今も、ぼくの内側でどんどん大きくなっていくんです。

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20代の未婚のシングルマザー。妊娠前にも、けんかがエスカレートして相手の男性から暴力を受けました。妊娠がわかってからも話し合いにならず、暴力……。殺されるのではという恐怖で迷わずシングルマザーを選び、逃げてきました。相手は「産んでも認知もしない。養育費も払わない」と電話口で吐き捨て、その後、音信不通になりました。/私は心のどこかで子どもが生まれたら相手は変わると思っていました。そう願っていました。その願いもむなしく、相手の親からも「二度と連絡してくるな」。/一緒に暮らしたいわけではありません。一目子どもに会ってほしいだけです。あんな怖い思いをしたのにバカげてると言われそうですが。相手は本当に子どものことを何とも思っていないのでしょうか。私は自分の選択を間違ったとは思っていません。でもこの子を認めてほしい。認知してくれなくてもいい。ただ祝福してほしいのです。(B子)/◇/殺されそうな恐怖に迷わずシングルマザーを選んだのですね。子どものために正しい選択をしましたね。よくやりました。あなたは子どもを守ったのです。ですから、ひどい仕打ちをした男や相手の親に幻想を抱くのはやめましょう。一目会わせたいとか、認めてもらいたいとの思いは、とても危険です。/そもそも子どもは、誰かのためではなく、生まれたいと自らが強く願って、生まれてくるのだと思います。あなたがその子を認め、心から愛すること。そして、お互いをかけがえのない存在として、一生懸命に大事に人生を生きていくこと、それで十分だと思います。/私もシングルマザーで、子どもの幼い頃、二人だけで暮らしました。母子家庭というだけで随分な目にも遭いましたが、今、振り返ると、その大変だった日々が、記憶の中できらきらしています。そして、子どもはいろんなところでいろんな人から愛情をもらって育ったことを実感します。/奇跡のようにこの世に誕生し、すくすく育っていること、それがその子が祝福されていることだと思います。頑張りましょう。http://www.yomiuri.co.jp/jinsei/danjo/20100708-OYT8T00268.htm

――「そもそも子どもは、誰かのためではなく、生まれたいと自らが強く願って、生まれてくるのだと思います。あなたがその子を認め、心から愛すること。そして、お互いをかけがえのない存在として、一生懸命に大事に人生を生きていくこと、それで十分だと思います」